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源実朝(鎌倉右大臣)と、
その和歌。
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実朝について(文責・尾崎克之

実朝の生涯
源実朝 みなもとのさねとも (1192~1219)

建久三年(1192年)、鎌倉幕府成立の年、源頼朝の二男として北条政子を母に生誕。幼名を千幡。時に頼朝四十六歳、政子三十六歳。阿野全成の妻、保子を乳母に育つ。阿野全成は頼朝の腹違いの弟、保子は北条時政の娘であり、政子の妹である。

八歳の時、父・頼朝が死去。将軍職を兄の頼家が継ぐ。時の執権は北条時政。頼家の失政と、時政の息子・義時と娘・政子、乳母の保子の思惑のもとに、その後頼家は強制的に出家。千幡は十二歳で征夷大将軍に任じられるとともに後鳥羽院より実朝の名を与えられ、鎌倉三代目将軍となる。兄・頼家は翌年、幽閉先の修善寺で惨死。叔父・義時と母・政子の手引きによる暗殺とされる。

十四歳の時、北条時政の妻・牧の方を首謀者とする実朝の暗殺計画が露見。時政は出家し、執権職は時政の子・義時に継がれる。十四歳で己が暗殺計画に直面したこと、その前年の兄・頼家の暗殺が結果的には自らの勅によるものと解釈されざるを得ないこと。小林秀雄は実朝の孤独の無類をここに見て「そういう僕等の常識では信じ難く、理解し難いところに、まさしく彼の精神生活の中心部があった事、また、恐らく彼の歌の真の源泉があった事を、努めて想像してみるのはよい事である」と書いた(無常という事『実朝』)。

十五歳の時、頼家の息子・善哉を猶子として迎える。実朝とは八歳の違い。五年後、善哉は鶴岡八幡宮に出家させられ「公暁」の法名を受け、京都へ。公暁が「親の敵」として実朝の首を刈るのは、その後、ふたたび鎌倉に戻り鶴岡八幡宮別当に就任して後のことである。

十七歳の時、疱瘡(ほうそう)を病み、それが理由の痘痕(あばた)は生涯消えることがなかったといわれる。太宰治の『右大臣実朝』では、母・北条政子が“もとのお顔を、もいちど見たいの”と言ったのに対して、“スグニ馴レルモノデス”と言わせている。

二十二歳の時、頼朝の代からの臣下・和田家が義盛を中心に謀反を起こす。北条義時の執権体制に対しての謀反であり、実朝には従来より和田擁護の想いがあったが、情勢は許さず和田家は滅ぶ。この和田合戦のすぐ後に家集(後の『金槐和歌集』)が編纂されたことが、昭和四年に発見された定家所伝本・金槐和歌集の奥書の日付によって明らかになった。

二十五歳の時、東大寺大仏の建造にあたった宋人・陳和卿が鎌倉に参着。実朝に対して、自分は遥かの宋にあって将軍の前世の弟子でした、と告げ、実朝もまた“夢で知っている”と答える。実朝は渡宋を計画し、陳和卿に造船を命じるも、完成した船は座礁したまま由比ガ浜で朽ちることになる。この一件は金銭に窮した陳和卿の事業詐欺であるというのが定説。しかし、実朝にとっての渡宋計画の意味解釈は魅力深い作業であり、評論のみならず、戯曲、小説のかたちで種々ある。

二十七歳の時、実朝は一年内で己が京都に望むまま、権大納言、左近大将、内大臣、右大臣と、異例の官位昇進を遂げる。臣下の大江広元が、官位を望まれるのは後のことに、と苦言するのに対し実朝は、“源家は私で途絶える。ならば家名を上げるのが私の役”と言う。実朝には跡継ぎたる子は一人も生れなかった。

二十八歳の正月、前年の右大臣拝賀のために参内した鶴岡八幡宮で、公暁の刀により暗殺。落とされた首の所在は不明。公暁は暗殺の実行者に過ぎないというのは定説だが、その首謀者には諸説ある。公暁の計画を知りつつ実朝を見殺しにすることで義時がその後の権力の充溢を図ったとする説が一般的で、大仏次郎の『源 実朝』などはそれを採っている。近来では、永井路子が『炎環』『北条政子』の中で展開した三浦義村が首謀したという説に支持が強い。義村が事あるごとに公暁の生活に介入して憎しみを醸成させ暗殺まで導いたものの、最後の最後、最重要目的であったはずの義時殺害を逃して結果的に失敗に終わった、という説である。


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